Saltの思うこと

思ったことを書いていけたらいいなあ

運命からの解放

※ネタバレが含まれるのでご注意下さい。

 

トイストーリー4』を観てきました。ピクサー作品はけっこう好きで(と言っても、子ども時代に地上波放送されたりDVDをレンタルした程度ではありますが)、特に『トイストーリー』シリーズは大好きでした。昔おもちゃを持っていたぐらいには。

ネット上では既に賛否あり、心無い言葉を投げかける方々も見られますが……自分は「これでいいんだ」と思うようにしています。誰かにそうするよう言われたわけではありませんし、まして反骨精神などでもありません。映画館で本編を観て、その内容をありのままに受け入れた自分がいる。ただそれだけです。

 

今回は終始、「ウッディのウッディによるウッディのための物語」だったという印象。でも当然と言えば当然で、今までのシリーズほぼ全てウッディ自身のエゴというか、使命感で行動しています。「それがアンディのためだ」という。

それが今回はもう彼らはアンディの物ではなくなったわけで、作中でもウッディはわりと露骨にぞんざいな扱いを受けます。ごっこ遊びに引っ張り出されず、フォーキーの見張りに心休まらず、踏まれ、音声機能を失い。

今までは「アンディのためが巡り巡って自分たちのためになる」ことがわりと多くて、本編が終わるたびに買った覚えの無いおもちゃ(ウッディたちにとっては仲間)が部屋に増えている怪奇現象は、もはやお馴染みでした。

しかし今回ウッディは、持ち主の下から去る決断をします。何故かというと、「もう彼女(ボニー)に自分は必要無い」と判断したんじゃないでしょうか。ボニーにとってのウッディが、フォーキーですから。それに人形遊びにはジェシーがいて、保安官バッジも毎回借りている。元アンディのおもちゃたちのまとめ役で一番のお気に入りはウッディだけど、ボニーには関係無いことです。譲り受けたからといって、その人の想いを全て継ぐ必要は無いですね。……少し寂しいし、厳しいことかもしれませんが。少なくともボニーにとってウッディは、そのぐらいの存在でした。

それで今まで「君はともだち」とか言ってたウッディが持ち主の下から離れる理由には全然足り得ませんが、そこでボーが出てくるわけですね。そのものズバリなアンティークショップで次の持ち主を待つことにくたびれ、自分の世界を切り拓いた彼女。裏ではジェンダー問題とか絡んでるのかもしれませんが、ここでは彼女の意志ということにしておきます。

同郷でもある彼女と再会し、彼女なりの生き方を間近で見たわけです。今までウッディは「子どもの成長を一番そばで見守ってやるのが、おもちゃの最大の役目だ」と考えていました。だから3での別れまで、何が何でもアンディの下へ帰ってきたわけです。

でもボーは、アンディやモリーがまだ子どもの頃(2より後)に引き取られていて、成長を見届けてはいない。本人も「子どもはそんなもの」と受け入れてます。

持ち主の成長を見届けるおもちゃは他に出来ている、となると……といった感じでしょうか。ウッディも相当な年代物ですから、最新の考えに改めたとも言うべき?

本作を要約するならば、「持ち主(アンディ)のために奮闘するおもちゃ(ウッディ)の物語」から「おもちゃ(まだ持ち主がいない)のために奮闘するおもちゃの物語(トイストーリー)」になった。そんな感じでしょうか?

続編として受け入れがたい気持ちは分からなくもないですが……それ以上に、ウッディ自身の決断であるからこそ、タイトルが『トイストーリー』足りえるのではないかと思いました。

 

ところで、今作ではバズが結構バカっぽかったですね。

もともと、1の時点で「自分をスペースレンジャーだと思い込んでいる精神異常おもちゃ」に始まり、3では言語変更されてしまったり三枚目な扱いは多かったですが、そこはちょっと気になったかも。